今日は、占いにはつきものの『運勢』について
書きたいと思います。
占いには『運勢』がつきものです。
『運勢』自体が占いの目的そのものと言えるほどです。
ですが、だからこそ、蟹座さまたるもの、『運勢』になど振り回されずに確固たる自信を持って歩んでいっていただきたい、と考えているのです。
- 「運」「運勢」とは一体何か
- 『運勢』はあるのか?ないのか?
- 運が良いとは本当に良いことなのか
- 権威の証明としての「運」の誕生
の観点から書いてみたいと思います。
[「運」「運勢」とは一体何か。]
一定の法則のもとに、時々の「運勢」を分析判断するのが占いなのですが、そもそも「運」とは何でしょうか。
ウィクショナリーによると、「運」とは、まわす、巡らせる、はこぶ、進める、めぐりあわせ、の意味とあり、占いで使われるのは、「めぐりあわせ」の意味ですね。
漢字の字源をみると、部首しんにょう(足の運動)と軍(戦車で取り巻いた陣立て)の組み合わせで、回る運動を表しているとあります。
運をつかむ運を授かる、とよく言われますが、文字どおり雌雄を決するような戦場での様子を見て、古代の人が何ものかを感じ取って生まれた言葉のように思えますね。
地形、気象、規模、体制、戦術、物資など複雑な要素の絡み合う地政学的な条件の、最終的な決定要因、それを「運」と表したのかもしれません。
時の運、などと言い出してしまえば、もはや人の力ではどうすることもできない領域となります。
結果は目にすることができますが、「運」そのものは見ることができません。
見ることができないそれは、一体何なのでしょうか。
[『運勢』はあるのか?ないのか。]
占いの場は、「運勢」を問われているのですから、「運」は目的そのものと言っていいでしょう。
運がある、運がない、良い悪い、と、吉凶を判断する行為が占いです。
また、「運気」など、「気」や他のものと組み合わせて使われることもあり、特別な行為を行うことで、物理的に発生させたり除去したり、または、発生している場所が存在するかのように扱われることもありますよね。
何らかの物質であれば、勢いを増したり、移動させたりすることが可能なのかもしれません。
はたして『運勢』というものは存在するのでしょうか。
占星術でホロスコープを読んでいると、確かに、これは運としか考えられない、というチャートにめぐり合うことがあります。
まさに時のめぐりあわせで完璧なタイミングで起こる現象や、ホロスコープ上で示されている現象が起きているのを目にすると、「運」「運勢」のようなものは、ある、と思います。
カレンダーとしての観点から見ても、物事の動きのサイクルを考えるなら、サイクル上に存在するある一定の場をそのように呼べると思われます。
ですから、「今は行動するのに適した時かどうか」といった意味で「運」とよぶのであれば、それは行使可能な何らかの「期間」ではないかと思います。
[運が良いとは本当に良いことなのか]
個人的に、「運勢」について思いを巡らせる時、古代マケドニアのアレクサンドロス大王のことが浮かびます。
アレクサンドロス大王といえば、紀元前300年代に中央アジアからインダス川西岸までを征服した英雄です。
たった10年でこの偉業を成し遂げたことを考えると、彼ほど「運」に恵まれた人物も歴史上珍しいのではないでしょうか。
ですが、30代の若さで死去しています。
何か巨大な力に突き動かされているかのように彼の周辺で物事は拡大し、そしてその何かの力がついえた時か、あるいは、事象が成就した時、その力はたち消えていった。
世界史の授業で必ず名前を覚えるこの人物に起きたこと、まさにこれが「運」そのものを表しているように感じられるのです。
人知を超えた力をそこに見る人もいるでしょう。それを運と呼ぶのかもしれません。
しかし、残されたものはなんでしょうか。
石の建造物の跡、後に続く人々と「物語」です。
世界史という一連のまとめられた視点を用いなければ、何かが起こって過ぎ去り、次にまた別の何かが起こった、それだけのことではないでしょうか。
そもそも、この英雄は運に恵まれ、幸せだったのでしょうか。
また、塞翁が馬という故事がありますね。一見凶事に見えることが良い結果を招き、良いことが起きたと喜んだら思いもよらぬ災いを招いた、という話で、「人間万事塞翁が馬」などと使われます。
現代でも航空機に乗り遅れたら運良く事故に巻き込まれずに済んだ、といった話はよく耳にします。
航空機に乗り遅れたことで事故に巻き込まれずに済んだとしても、その人物にとっては到着していた場所で待ち受けるはずだったものの方が、重要だったかもしれません。
運が良かったのか、良くなかったのか。
判断をするのは人で、そこに発生しているのは「評価」です。
起きた出来事は、空港に到着する時間に間に合わなった人がいた、ということと、たまたま飛び立った機に事故が起きた。
事象をつなぎ、判断し、評価しなければ、ただそれだけのことなのです。
[権威の証明としての「運」の誕生]
前述した字源となったであろう戦場の話に戻りましょう。
戦場で生き残った陣営は、その後おそらく自分たちの都合の良いように、歴史を書いたことでしょう。
その時、出来事をつなぎ、意図を持って、勝利した陣営にはあたかも巨大な力が正当性を付与したかのような物語が作られ、その『名』が生まれたとは考えられないでしょうか。
名を与えられ、価値を持った「権威」としての「運」が誕生したのです。
「物語」がなければ、ただの現象に過ぎません。
「運」「運勢」を作り出したもの、それは意図を持った物語の集合体、「概念」なのではないのでしょうか。
[ まとめ ]
戦場で起きていたことを見た人々が感じ取った、人知を超えた人の力ではどうすることもできないもの。
かつて、私たちは”それ”に名前をつけました。
時を経て、”それ”は広く知られ、拡散して、今では人ひとりひとりの選択を左右する力を持ったものになっています。
人の行動の結果を左右する何らかの力のように見えるもの、それは確かに存在していると思います。
しかし、それに名を与え、価値や権威、理由を与えているのは、行為の結果を判断しているのは、私たち自身なのではないか、そのように考えるのです。
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